art of choosing

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著者のシーナ・アイエンガーは、シーク教徒として生まれ、高校生の時に失明してしまいます。

シーナがスタンフォードの大学院生時代に行った「ジャムの研究」は、選択をめぐる消費者の心理と行動について、一石を投じたことで知られています。高級食品店の試食コーナーに24種類のジャムを取り取りに並べた時と、6種類のジャムを並べた時、売上は品揃えが少ない方が圧倒的に多かったというのです。

「ジャムの研究」は、後に多くのビジネスの現場で応用され続けています。P&Gは26種類あったシャンプーを15種類に絞り込んで売上を10%伸ばし、コンサルティング会社は顧客に示すプランを3つの選択肢に集約することで成果を上げました。「あれもこれも」ではなく、「これとこれ」と選択肢を整理することで、実は売る方も買う方も理想的なバランスが得られるのです。

「ジャムの研究」だけでなく、「選択」について、約20年間にわたってあらゆる実験と研究を実践してまとめあげたのが、art of choosingです。

以下、著書の要約です。

序章 私が「選択」を研究テーマにした理由
シーク教の教えに従って着るものまで決められてい た私は、高校に入る頃に失明する。そして、学校で、私は「選択」こそが力であることを学ぶことになる。

第1講 選択は本能である。
選択は生物の本能である。なぜ満ち足りた環境にもかかわらず、動物園の動物の平均寿命は短いのか。 なぜ、高ストレスのはずの社長の平均寿命は長いのか。

その理由は、自分がどこでどうやって時間を過ごすかを、自分で決めることができるからである。人は可能な限り選択の自由を求めるということ。どんなに悲惨な状況にあっても、自分の人生を自分の力で選択でき、コントロールできるものと見なしたいのである。

第2講 集団のためか、個人のためか
私の父は結婚式のその日まで、母の顔を知らなかった。親族と宗教によって決められた結婚は不幸なのか。宗教、国家、体制の違いで人々の選択の方法はどう変わるのか。

「自己決定権」が大切である。自己決定権を維持できない時、私達は無力感や喪失感を覚え、何もできなくなってしまう。 しかし、実験の結果、原理主義に分類された宗教の信徒は、他のの宗教に比べて、宗教により大きな希望を求め、逆境により楽観的に向き合い、うつ病にかかる割合も低いのである。

このことから分ることは、制約は必ずしも自己決定権を損なわず、思考と行動の自由は必ずしも自己決定権を高める訳ではないということである。

第3講 「強制」された選択
あなたは自分らしさを発揮して選んだつもりでも、実は他者の選択に大きく影響されている。その他大勢から離れ、とは言っても、突飛でない選択を人は求めるのである。

「平均以上効果」といって、私達は、自分は他とはまったく違う個性的な存在なのだと常に自分に言い聞かせ、周りの人にもそれを分からせようとする。人はその他大勢と見られることに我慢できない。私達が一番心地よく感じるのは、「ちょうと良い」位置に付けている時、すなわち、その他大勢と区別される程度は特殊で、それでいて定義可能な集団に属している時である。

相矛盾する二つの力の板挟みになる不快な状態は、「認知的不協和」と呼ばれ、不安や罪悪感、困惑を引き起こすことがある。人は認知的不協和を回避して、自分自身について辻褄の合う物語を生み出す必要から、もともとは意に反して取り入れた価値観や考え方を肯定し、自分の価値体系の中に組み入れることがある。

他人はあなたの行動をからっぽの状態で判断する訳でなく、自分の経験のレンズを通して解釈するか、あるいは、あなたの外見からこういう人物だろうと判断を下し、その人物像についての一般的な固定観念を通して解釈するのである。

第4講 選択を左右するもの

人間は、衝動のために長期的な利益を犠牲にしてしまう。そうならないために、選択を左右する内的要因を知る必要がある。人は実際に、互いに結びついているがそれぞれ別々の脳回路を使って情報を処理し、答えや判断に到達する。

第一のものは「自動システム」と呼ばれるもので、すばやく、容易に、そして、無意識のうちに作用する。 第二のものは「熟慮システム」と呼ばれ、未加工の感覚情報でなく、論理や理性である。

私達は毎日何度も決断を下しているが、ただ繰り返すだけでは選ぶ能力は向上しない。経験則は向上しないのである。 私達が情報をどのようにとらえるか、またはどのように情報を提示するかによって、選択に対する見方や判断が大きく変わる。

人は、利益より損失に対してずっと強く反応する。具体的な例として、コカ・コーラCEOのロベルト・ゴイズエタの伝説化した物語がある。ゴイズエタが就任まもない頃、上級副社長達との会合に出て、全世界のソフトドリンク市場で同社が45%のシェアを獲得したといって、経営陣が浮かれていることを知った。しかし、ゴイズエタは、 「人間の一日の水分摂取量はどれだけか?」「世界の人口は?」「ソフトドリンク市場でなく、飲料市場全体で見た場合の我が社のシェアは何%か?」と考えた。そう、その答えはわずか2%である。

ゴイズエタは問題を違う枠組み(フレーム)を捉え直すことによって、視野を拡げ、独創的な考え方をするように経営陣にハッパをかけた。これを機にコカ・コーラ社は戦略を劇的に転換し、驚異的な成長をとげた。人は自分の意見を裏付けたり、以前行った選択を正当化するような情報を進んで受け入れる。自分の考えを疑うより、その正しさを証明する方が気分はいいからである。

アインシュタインによれば、宇宙を支配する物理法則の発見においてすら、直感が大切だという。「こうした基本法則を発見するための論理的方法など無い。ただあるのは直感的な方法と、上っ面の下に存在する秩序への感受性のみである」。

一つの分野で、世界の専門家並みの理解度に達するには、平均して延べ1万時間、つまり毎日3時間ずつ、約10年間にわたって、訓練を積む必要があるとされる。しかし、ただやみくもに何かを毎日3時間ずつ、10年間続けたからといって、その分野の世界チャンピオンになれる訳ではない。向上するには、たえず自分の行動を観察し、批判的に分析し続けなくてはならない。

何がまずかったのだろう? どうすれば良くなるのだろう?

第5講 選択は創られる
ファッション業界は、色予測の専門家と契約しているが、実は、専門家は予測ではなく単に流行を創っているのではないのだろうか?ここでは、人間の選択を左右する外的要因を考えてみる。

ファッション業界がめざすのは、できるだけ多様なメディアを通じて、消費者を商品に触れさせ、様々なレベルで感化し、いわるゆる「単純接触効果」を創出することである。単純接触効果とは、人は特定の対象や考えに何度も接するうちに、その対象にどんどん好意的な感情を持つようになるというものである。但し、当初から対象に好意的または中立的な感情を持っていることが条件である。

第6講 豊富な選択肢は必ずしも利益にならない
私が行った実験の中でもっとも多く引用され、応用されている実験にジャムの実験がある。ジャムの種類が多いほど売上げ増えると人々は考えたのだが、実際には売上が下がった。「多いということは少ないことである」。換言すれば、選択肢が多いと、満足度や充足度、幸福度は低くなるのである。

ロングテールは、人が数百万もの選択肢に対処できることの証拠として引き合いに出される。しかし、この現象が見られるのは、書籍や音楽CDのように、他とはっきり区別が付く商品に限定される。401kプランでどのように年金資金を運用するかといった、困難かつ重大な意思決定においては、やたらに選択肢の数を増やすことは逆効果を生み、利益になるどころか、かえって害になる意思決定を招きかねないのである。

第7講 選択の代償
わが子の延命措置を施すか否か。施せば、重い障害が一生残ることになる可能性が高い。その選択を自分で行った場合と医者に委ねた場合との米国とフランスの比較調査から考える。

重病の子供が延命治療の中止後に亡くなっていた。 しかし、米国では親が治療中止の決定を下さなければならないのに対し、フランスでは親がはっきりと異議を申し立てない限り、医師が決定を下すのが通例となっている。フランスの親達の多くが、「こうするしかなかった」という確信を口にし、米国の親達ほど、「こうだったかもしれない」「こうすべきだったかもしれない」という思いに囚われずに、自分の経験について語ることができた。

「余計なストレス」が、米国の親達を執拗に悩ませた罪悪感や迷い、恨みを理解するカギなのかもしれない。すなわち、選択の重荷が、フランスと米国の親達の共通点(幼子を無くす辛い試練)を凌駕するほどの影響を及ぼしたのである。

否定的感情の大きさを決定する要因は、治療の中止または継続という実際の決定に対する確信の強さではなく、むしろ、この状況をもたらしたのが自分であるという認識、子供の死や苦しみを直接もたらした原因が自分にあるという認識にあるように思われるのである。

難しい問題に限って言えば、選択の権利を行使するには、外部から何らかの助けが必要なように思われる。自分に何かの行動をとる自由があると信じている者は、その自由が失われるか、失われそうになる時、心理的反発(リアクタンス)を感じる。心理的反発とは、失われそうな自由または失われた自由を回復しようとする動機づけ状態と定義され、その行動を取りたい欲求の高まりとして現れる。人は禁止されたものを欲しがるのである。

最終講 選択と偶然と運命の3次元連立方程式
岩を山頂に運び上げたとたんに転げ落ちるシジフォスの神話。しかし、シジフォスの行為は本当に意味が無いのだろうか。人生もまたしかり…。選択は人生を切りひらく力になるのである。私達は選択を行い、そして、選択自身が私達を形作る。科学の力を借りて巧みに選択を行うこともできるが、それでも、選択が本質的に芸術であることに変わりはないのである。

選択の力を最大限に活用するには、その不確実性と矛盾を受け入れなくてならない。選択の全貌を明らかにすることはできない。しかし、だからこそ選択には力が、神秘が、そして、並はずれた美しさが備わっているのである。

[Sheena Iyengar]
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